ふぃる

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もともとは違うことを書こうとしていたのに

ログインできなくなって、すったもんだしているうちに、もともと何を書こうとしていたのか忘れてしまいました(笑)。ということで、本当はここで書くつもりではなかった話ですが、ついでなので書いておきます。よく英会話を子供のうちから勉強させるとか、あるいは社会人になってからでも TOEIC などを勉強するという人は、昔からたくさんいるわけです。でも、そういう人たちが読む参考書の殆どは、全く現実離れした前提でアドバイスを書いています。例えば、会話の聞き取りにしても、みなさんよく考えてください。みなさんの周りにいるコテコテの日本人に、明瞭な発音で、正確な文法に従って、誰でも分かる言葉を使って話している人が、いったいどれだけいるでしょうか? 圧倒的多数の人は、自分が言いたいことだけを一方的に喋る早口、自分自身にだけ聞こえたらいいかのような小声、支離滅裂で論旨のよく分からない内容、意味不明な俗語、敬語や TPO を無視したスピーチレベル、言葉の誤用や無知、おまけに、これは不可抗力なので責められることではありませんが、ドモリや方言など、正確には何を言いたいのか分からないことを喋っています。こんなことは、実際には外国人と会話するときでも同じなんです。英会話の通俗本がモデルにしている、絵に描いたような簡潔で的確な会話というのは、要するに彼らがもともと簡潔で的確に喋らなくてはならないビジネスの世界だけを想定しているからであり、現実にはそんな芝居じみた会話なんて限られた状況でしか成立しません。なので、TOEIC にしても 900 点なんて目指す必要はないんです、本当のところ。900 点以上取っていても全く英語が使えない人はたくさんいます。それは彼らが TOEIC というゲーム的な試験にしか対応できない「マニュアル人間」だからだと言われたりしますが、僕はそうは思いません。そうではなく、寧ろ現実の会話というのは TOEIC の問題みたいな理想的な状況とは懸け離れているからです。つまり、900 点だろうと無理なんです。したがって、聞こえなかったら "Pardon?" などと聞き返すフレーズを覚えたりして、自分がちゃんと聞けるように喋ってもらう方がよいでしょう。相手が分かってもらいたいと思っていれば、喋りなおしてくれます。これも英会話の本で、英会話の上達は女性が速く、関東人よりも関西人の方が速いなどと言われたりしますが、本当かどうかはともかく、自分が分からないと思ったら「分からない。分かるように喋って」と言えなくてはなりません。こうしたことを「厚かましいこと」だと考える人は、たぶん「厚かましい=関西人」などという軽い差別を下敷きにしているのでしょう。また、女性なら多少は甘えて「分からないから、言い直して」と言っても許されるなどという、これまた軽い差別を下敷きにして「女性の方が英会話の上達は速い」などという話を書いて喜んでいるのかもしれませんが、本質はそのようなことにはありません。

ビジネス本

昔で言う「サラリーマン」や「オフィスレディ」、いまで言うところの「ビジネスパースン」ですか。そうした人々が読む本を「ビジネス本」と言うのはご承知のとおりですね。新卒が読むビジネスマナーの胡散臭い本から、役職者が読む経営戦略の胡散臭い本まで、色々と胡散臭い本が揃っています(笑)。もとより経営学上の論点というものは、その殆どが、論理的には議論の余地なく解決済みでも、僕ら凡人の集まりにすぎない現実の企業に実装するのが難しい理想論であるか(「だから悪い」とは言っていません。理想論は必要です)、あるいは心理学やカウンセリングや社会学や哲学のように定説がなくて混乱しているかのどちらかです。そして、こうしたビジネス本を片手間に書いているような人々というのは、つまるところ解決済みの論点を紙の上でベキ論として説明するような本を書いて小遣い稼ぎをしたい業界人(学者、コンサル)であるか、あるいは定説がないのをいいことに自分の些末な企業経営の経験を何らかの「思想」であるかのように自分自身で美化 200% で描く自画像のような経営本を出している暇人であるかのどちらかです。失礼ながら、ドラッカーなどは前者、そして松下幸之助さんらの場当たり的な発言を集めた金言集のようなものは後者だと言えます。理屈はともかくとして、次に仕事のノウハウ本を考えてみると、仕事のノウハウとは言っても、メールの書き方や名刺の扱い方ですら業種ごとに商慣行が違っているのは周知ですし、個々の会社によって社内のルールが違っていて、とても薄っぺらい本で語れるようなことではありませんし、薄っぺらい本に簡単にまとめられる人もいません。また、この社内ルールというものは、場合によっては、テレビドラマでよく描かれているように、商法どころか刑法や憲法に違反するようなものまであったりします。最近では公益通報者保護法というものがあって、内部告発の制度が整えられつつありますが、まだ全くのザル法と言ってよく、役に立ちません。(たとえば会社を退職してしまうと「内部」の人ではなくなるので、会社の実態を告発する資格がなくなります。これでは会社に居続けながら当局とやりとりしなければいけないので、会社側にバレるリスクが高くなります。)僕が思うに、経営という大きなタスクから従業員の業務という小さなタスクに至るまで、それらを決めたり考えている人の多くは、経営者にしろ学者にしろ、自分の会社だとか自分の講座について全権を握っているという意味で「一国一城の主」です。したがって、こうした地位に就くと、ルールそのものを自分で決められる能力や権限があるという妄想に陥りやすくなります。

アメブロからの引っ越し

いまのところ、アメブロはゲーム、こちらはそれ以外という区別で書いています。アメブロは広告だらけですから、こちらに引っ越してもいいのですが、やや手順が面倒です。アメブロは、ユーザの囲い込みをしたいからか、いまどき記事のエクスポート機能(他のブログに記事を移すためのデータ出力機能)をサポートしていません。「技術のサイバーエージェント」だとか、「女性の技術者を増やして使いやすく」といったスローガンが、「コーダ」とか「プログラマ」とか「エンジニア」とか「フロントエンド」などと呼ばれてはいても、しょせんはブルーカラーにすぎない人々を集める口実であったり、無知な一般投資家に向けた目暗ましにすぎないということがよく分かります。さて、そういうわけでデータを書き出す方法について調べてみると、たとえば「アメブロゲット(http://amebloget.com/)」というサービスがあります。試用版なので20件しか記事は取得できませんし、使い始めてからやっと初めて、メールアドレスを使ってユーザ登録しないとそもそもデータがダウンロードできないという事実が分かります。商売っ気は分かりますが、基本的に不誠実な UX 設計ですね。また、試用版なので、ユーザ登録しても使えるのは1週間ほどです。その後、登録したメールアドレス(個人情報に該当する場合もあります)の取り扱いがどうなるのか、サイトに全く説明されていません。これは、明らかに子供(と見做されても仕方ないくらいのサイト構築の知識しかない素人)が作ったサービスです。信用に値しません。そもそも記事を書き出したいだけなら、ブラウザに表示した一つ一つの記事をブラウザでおもむろに保存するだけでいいと言えばいいのですが、それだと後から他のブログサービスへ記事を移すときに、また一つずつ記事を登録していかないといけません。これは面倒です。サイバーエージェントさんには、何らかの対応を求めたいところです。

退職者を見送る

今年に入って、残念ながら何人かの方に退職していただくこととなりました。そういうわけで、最終日にはメールアカウントを失効させたり、他のメールアドレスに転送設定したり、チャット等のサービスからアカウントを削除したりしています。もちろん、最終日だからといって「早く帰れ」とも言えないので、彼らの作業が終わるのをこうして待っているわけです。最近のマーケティング業界では、「ブランド3.0」、つまり「自社の視点(1.0)」から「顧客の視点(2.0)」へ、そして更に地域社会など「マルチステークホルダの視点(3.0)」を考えて、単に自社や顧客さえ良ければいいということではブランド力にならないという話がたくさん出てきているため、必ずしも会社の都合だけでものごとを決めてはいけないのかもしれません。しかし、やはり私企業というものは慈善事業ではありませんし、マルチステークホルダとは言っても優先順位があります。このため、優先順位に従って、何かを切り捨てる必要があります。事業の業績が思わしくなければ、自社と顧客の取引関係を守るのが優先するため、地域社会への貢献や、あまりにも費用がかかるブランディング(例えばスポーツクラブの運営など)は後回しになるのが当たり前です。その次に、自社と顧客とでは、もちろん顧客がなければ事業は続けていけないので、自社の中で経営を改善することが求められ、こうして事業を整理したり、何人かに退職してもらうことになります。つまり現実の優先順位は、・自社の存続(法人)・顧客・従業員・他のステークホルダとなります。でも、この優先順位の理屈は上から下に単純な優劣があるというわけではなく、顧客との取引関係を守ることによって法人としての企業が守られ、そうして結果としては従業員を守ることにもなるので、従業員が下に来ているからといって蔑ろにされるわけではありません。しかし、こうした理屈が理解されないと、「他のステークホルダ」である無関係の一般人から見れば、従業員を切り捨てているように見えるのでしょう。

僕にとっての「おじさん」

僕には「おじさん」と呼ばれる人について、あまり良い印象や記憶が残っていません。一人は、僕が中学の頃に亡くなった父の兄です。事情は分かりませんが、心を病んでいたらしく、就職しないで親戚の家を渡り歩いては何日か厄介になったり精神病院へ入っていたりしたそうです。この伯父さんが家にやってきて、この人物がずっとテレビを観ていた姿を見て、僕は「なんだ、この人は?」という印象を受けた憶えがあります。気の毒なことに、かなり前に亡くなってしまいましたが、どういう人物だったのか、両親もあまり語ろうとはしません。一人は、母親の弟です。確か巨大企業の重役になっていると聞きましたが、既に付き合いもなくなって久しいため、どうされているのかは知りませんし、興味もありません。小学生の頃に、この叔父さんの結婚式へ出席した記憶だけが残っています。どこかのホテルの一室に新郎・新婦の親戚が集まって、それぞれが自己紹介していました。僕が通っていた小学校は名称が長かったため、僕が自己紹介したときは、通っている学校を早口で喋ったために、誰も聞き取れなかったかもしれません。でも、そんなことはどうでもいいと思っていました。ちなみに、さきほど検索してみたところでは、下の名前(確か婿養子になったはず)では役員に該当者がいませんでした。もしかすると社内抗争の結果によって子会社に飛ばされたりしたのかもしれませんが。一人は、叔母の旦那さんとして何年か前に亡くなった人物です。建材メーカーの「辣腕営業部長」だったらしく、酒を飲んでは父や他の親戚と悶着を起こしていました。祖母の葬儀を実家の田舎で執り行ったときも、酔っ払った挙句に、僕に向かって「『おじさん』と呼ばずに苗字で呼ぶのは気に食わん」と怒り出し、僕の洋服を掴んで仏壇の前に引きずって行き、「お婆さんの前で反省の言葉を言え」などと言った末に「何を言うとるんや、あんたは!」と怒り出した父親や他の親戚と喧嘩になりました。といったこともあり、当家とは年賀状のやりとりもありませんでしたし、新年やお盆に向こうが焼香を上げに両親が住んでいる家へやって来た時も、両親が取り計らって僕と遭遇しないように日程をずらしていたそうです。ということで、僕はこの人物の後のことを全く知りませんでしたし、知りたくもありませんでしたが、この叔父さんは、晩年は認知症で病院に入ったままだったそうです。もちろん、お世話になった人物も何人かいるわけです。また、僕にも幾らかの過ちがあったのだろうとは思います。したがって、全ての親戚に悪い印象をもっているわけではありませんし、悪い印象の原因が向こうだけにあるわけでもないのでしょう。実際、僕は親戚付き合いどころか近所付き合いや人間関係そのものを、或る程度は幼い頃から些事だと見做して軽んじていたと思うからです。自分自身から親しみを込めて「おじさん」と呼ぶ人はいませんでしたし、そうしたいとか、そうしなくてはいけないとも思っていませんでした。正月に集まって話をしていたりするのを横から見ていたときなど、「いい歳をして、程度の低い話ばかりしている」と、僕は「おじさん」たちを馬鹿にしていたと思います。でも、いくら「親戚」とは言っても、ふだんは殆ど付き合いのない、言ってみれば赤の他人に限りなく近い人たちが一堂に会しているわけですから、無理やりの場つなぎや建前としては、当たり障りのない瑣末な話題を口にするしかないでしょう。しかも、もちろん子供ながらに思っていたように、彼らはそうした話題を超えて何かを「議論」するほどの才能も知識もないわけです。そのこと自体は仕方のないことであって、子供が非難したり軽蔑したところで、実はどうしようもないわけです。もし「程度の低い話をしている」などと言えるくらいの子供なのであれば、そうした現実にも気づくべきだったのかもしれません。(とりわけ、最近はサリンジャーの小説を読むことが多いので、余計にそう思います。)こういう言い方こそが相手を馬鹿にしている「シニカル」な態度だと思われるのでしょう。したがって、そういう態度だと相手に気づかれない「子供」を旨く装うことも処世術の一つであり、これをスキルとして欠落させてしまうと、どれほど高尚な目的をもっていても相手を動かすことはできず、何事も、とりわけ人間関係が必要とされることは実現しないのかもしれません。

人材紹介会社について

僕は、以前に人材紹介会社を利用したことはありますが、もうエントリーして求職するつもりはありません。いま現在、僕は管理系の部署にいるため、自社の人事が何をしているか見聞きしていますが、人材紹介会社というのは、紹介した人の採用が決まると当人の年収の3割が成功報酬となっている高額な契約のわりに、実はそういうところから採用した人材は非常に定着率が悪く、加えて、はっきり言うと紹介時の内容とは違って無能であることが多いと知っています。彼ら人材紹介会社は、要するに人材に関する広告代理店なので、基本的に「売り物」についての知識がさほどないと思っておいた方がよいでしょう。例えばプログラマやデザイナーを紹介すると言っても、彼ら人材紹介会社の「紹介コンサルタント」自身は、プログラミングやデザインについて殆ど知らないわけです。すると、紹介しようとする人材がプログラマやデザイナーとして有能であるかどうかの判定はできないんです。僕は、そんな人たちに口八丁だけで紹介してもらおうとは思いません。またそもそも、彼ら自身も殆どのコンサルタントが新卒のペーペーだったり、人を見抜く能力があるのかどうかも分からない人々なのですから、人材紹介会社、いまではこんな言い方をしていますが、つまりは「人足屋」とか「手配師」とか「口利き屋」とか「ブローカー」などというヤクザ商売ですが、それらを利用して人を採用してみた経験がある人ほど、こうしたところから紹介されて働いているという社員を信用していません。現に、いまの会社は部長以上の役職者が10人いますが、人材紹介会社の手引きで中途採用で入った人は一人もいません。みんな自分達で応募して入ったとか、伝手や知り合いです。僕も Find Job で見つけて入社した一人です。自分自身で採用してくれとアピールできないような人材が、広告代理店さんと一緒にウェブサイトを作るなんてことはできないわけなので、特にウェブサイトの制作やマスコミや広告にかかわる会社では、人材採用会社が入り込む余地はないと思います。

仕度

いま働いている会社は、勤め出してから10年ほどになります。僕は大学を出たのが遅かったため、いわゆる「新卒」としての就職はできず、インターネット関連の会社を中途採用で幾つか渡り歩いて、ようやくまともな規模と体裁の会社で10年は働けたというのは、ひとまず成果と言っておきたいです。そもそも IT 企業やオンラインサービスの会社なんて、起業しても半分は1年で消えて行きますし、10年も続くのは数パーセントがいいところです。そういう難しさを乗り切ってきた会社にいるわけですが、でも正直なところ待遇は中小零細の名に相応しいもので、僕の給料では殆ど貯金などできていません(いちおう部長なんですが)。もちろん「ボーナス」や「退職金」などという言葉は外国語を聞いているような響きがあります(笑)。さて、それはいいとして(多くの中小零細企業では景気が良かろうと悪かろうと昔から退職金やボーナスなんてありませんから)、僕もいまの会社でずっと居続けるわけにもいきません。もちろん全く貯金ができない年収では、いずれ年金をもらう年齢になっても補う蓄えがなくて、いわゆる「下流老人」まっしぐらです。定年で会社をやめたとたんに野垂れ死には嫌なものです。なので、或る意味で自分の生活を守るためには、色々と仕度しておく必要があるのでしょう。たとえば人脈をつくるとか、自分の経験を活用してくれそうな他の会社を探すとか、あるいは可能なら自分自身で起こせる事業を模索するとかですね。難しいですね。

マーケティングを学ぼう

会社では、部長待遇の役職に就いています(つまり「部長」という職位ではありませんが、経営会議メンバーで決裁権をもっています)。昨年度は社内で情報セキュリティのテストを毎月の後半に実施して、従業員のリテラシー・アップを図ってきました。これはこれで、昨年度の反省を予定しています。さて、今日は会社で役員と話をしていて、本年度は他の部署、特に営業やマーケティングの人たちへ、基本的な ITリテラシーを教えて欲しいと依頼されました。実際、「IT企業」なり「インターネット事業」を謳っている会社でも、営業や総務といった部署の人材は、インターネット通信やウェブコンテンツの仕組みを殆ど理解していません。お客さんには「Facebook の活用法」とか「Google Analytics を使った有効な分析方法」などと言っていても、Facebook や Google という企業がどのようにサービスを構築・提供しているのかを理解している人は殆どいないと言ってよいでしょう。そういうことでは、本当に困ります。もちろん、営業系社員や管理系社員に、インターネット通信を正確に理解するための厳密で基礎的な離散数学(確率論、グラフ理論、トラヒック理論、整数論、組み合わせ論、ブール代数、証明論、記号論理学などなど)をいきなり教えるのは無理ですし、その必要もありません。しかし、それらを分かった上で、Facebook や Google が何をしているのかを解説できた方が、首尾一貫した説明や正確な説明ができます。初心者向けの本を通読したていどのアドバンテージで、まだ読んでいない人に向かって何かを教えるなんてことは、実はやってはいけないことです。しかし、いままさに会社の多くの営業系社員は、自分達の売ろうとしているオンラインサービスについて、お客さんよりも先に使って経験しているというていどのアドバンテージで、まるで当社のサービスどころかインターネットの専門家であるかのように受け答えしたり、それどころか多くの人を相手にセミナーを開いたりしています。これでは、助成金を目当てにして地方の自治体へ馬鹿げた提案や助言をしているイカサマ・コンサルタントと同じレベルです。事業者として誠実とは言えません。ということで、少なくともうちの会社では圧倒的な知識と経験とスキルをもっている(笑)、僕が教育プログラムを考えて、まず営業系の社員を相手に実施することにしています。でも、僕も全てを十分に知っているわけではありません。また、彼らはプログラマではありませんし、プログラマと同じことを同じレベルで知る必要もないので、彼らの職能に応じた適切な内容と粒度の知識を得てもらい、実際に業務に活かせないと意味がありません。彼らは学者になるわけでもないので、知識として体系立っていて不整合がなければ満足するというわけではないからです。そこで、今日の帰りに会社の近くの大型書店へ立ち寄って、特に営業やマーケティングの人たちに関係がありそうな「ITリテラシー」の教材を眺めてきました。営業やマーケティングという職種の場合、必要とされる知識は大きな分類で言うと、・マーケティング・ネットワーク通信・ウェブコンテンツ制作・統計・消費者行動論・経営学などとなります。マーケティングを担当する従業員にマーケティングを教えるというのは、おかしな話に思えますが、僕ら役職者や経営陣から見ると、多くのマーケティング担当者がやっていることの大半は、広告とフィードバック分析でしかありません。つまり、体系的にマーケティングというものを学んだことがないわけです。特にインターネット事業に特化した会社のマーケティング担当者というのは、SEO やリスティング広告といった、広告の中でも更に狭い領域の知識しかなく、またフィードバック分析においてもログ解析という非常に狭い意味の分析しかやっていないわけです。これでは、自分達が使っている Google Analytics などのツールの仕様変更とか、新しい広告技術とかに振り回されがちなのも当然です。つまり、プロであるはずの営業系社員こそが、オンラインサービスやテクノロジーの「ユーザ」として右往左往していることになります。これは、上記に挙げたような基本的な原理原則あるいは仕組みの知識がないからです。書店では、IT リテラシーに関わる本は、だいたい次のような棚に置いてあります。・コンピュータサイエンスや数学の棚・ウェブ制作や開発の棚・マーケティングや広告の棚・経営学やマネジメントの棚この中で、営業系の社員にとって最も重要なのは、もちろんマーケティングや広告の棚に置いてある本です。そして、いわゆる「コンテンツ・マーケティング」や「オンライン広告」だけに特化した本は、立ち読みていどで十分です。あるいは、こうした話題を扱っているサイトの記事を読めばいいでしょう。なぜなら、「マーケティング」という考え方はインターネットなどよりも古くからあって、その頃から熟成されてきた議論や理屈の古典とも言える本は、広告やブランディングの方法が新聞の折込チラシだろうと Flash バナーだろうと同じように通用する筈の内容をもっているからです。そうでなければ、マーケティングの古典などと言われていても、しょせんは IT と関係のない「地べた営業」だけにしか通用しない、ただの経験談の積み重ねにすぎないという話になるでしょう。そんなものを学ぶ必要はありません。ですから、マーケティングで言えばコトラーの本が有名ですが、別にインターネット広告について詳しく書かれていなくてもいいのです。例えばコトラーの『マーケティング原理』は第9版の翻訳が最新ですが、本質的な議論が時代を超えて一貫して妥当しているなら、この本の第6版や第7版を古本屋で安く手に入れて読んでも十分に価値はあります。でも、Google Analytics の使い方だの活用法、なんて本は、Google Analytics の仕様が変われば、たちどころに無意味な紙屑になります。そういう小手先の情報を負うのも実務的なタスクにはなりますが、そうした使い捨ての情報は、誰もが学んでおくべき、職務の基本的な知識ではありません。

ブランドはサービスがつくるもの

さきほどの続きです。僕は、現在は実制作の部署にはいませんが、もともと雑誌の編集者もしていましたし、ウェブデザイナーでもありましたし、システム開発者でもありましたし、加えてブランドやマネジメントについても学んだり考えてきた経験があります。そのうえで言うと、実は something.com とか anything.co.jp といった「独自ドメイン」なんてものは、企業のアイデンティティと「切っても切れない」なんてご大層なものではありません。もっと言えば企業の名前とかロゴマークなんて、実はどうでもいいんです。大企業でもロゴマークや社名を変えることがあります。でも、それだけのことで、その会社が劇的に何か変わるなんて期待するウブな人はいないでしょう。「株式会社ほげほげ」として旅館を経営しても、お客さんが旅館のサービスに満足してくれて「株式会社ほげほげ」という文字列を記憶してくれさえすればいいわけです。「ほげほげ」という言葉に、何か自分達がやっていることの本質や意味が表現されていなければいけないといった理屈は、僕が大学で研究していた哲学では「言葉の魔術説」と言われる迷信です。「ほげほげ」つまり「ほ」「げ」「ほ」「げ」という四つの日本語の平仮名には、その文字を認知したヒトという動物にどういう反応を引き起こすかという機能があるだけで、それを超えた「意味」なんて実はないし、そういう「意味」があるはずだとか、なくてはいけないなどと言っているブランド理論は、おおよそ言語や認知についての考え方が18世紀のレベルで止まっています。したがって、多くの会社で総務部とか企画開発部とかが社内委員会を作ってやっている、自社の「ブランド」を確立するなんて活動は、僕に言わせれば単なる自己満足であり、仮にロゴマークの印象を調査したりお客さんを巻き込んでいたとしても、時間の浪費です。自社の社員にそういう「お題目」を考えさせて、帰属意識を高めようという経営側の理屈は分かりますが、かける時間に見合った成果は上がりません。ブランドというものは、その会社が本当に価値のあるサービスを提供していて、それが多くの人たちに正しく受け止められることによって、自ずと「ブランド力」として定着していきます。ロゴマークをナニナニ可士和に作ってもらったとか、コーポレートサイトを株式会社何とかキュールに制作してもらったとか、あるいはブランド規定のマネジメント体制を何とかセンチュアに監修もらったとか、そういう事の一切は広告代理店が得意とするただの「こけおどし」や「はったり」、あるいはそれだけ費用をかけたのだから価値があるはずだという思い込みや「サンクコスト」にすぎず、最初は達成感という自己催眠(集団催眠)の錯覚によって満足できたり、顧客の目を引くかもしれませんが、実質とししての商品やサービスが満足に受け入れられなければ売り上げにもつながりませんから、定着などしません。